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2012年05月20日

みんな年を取る

本日は、春の伝道集会3として、「みんな年を取る」のテーマで、
詩篇第71編を学びました。


今井牧師が東京教会週報に以下のメッセージを掲載しています。併せてお読みください。
なお、ブログに掲載した今井牧師のメッセージなどが読みにくいとの指摘があります。
できるだけ早く改善いたしますのでご容赦ください。

「人間らしく」                    日本キリスト改革派東京教会牧師 今井 献
一週間前(5/13)の朝日新聞社説は「一体改革審議入り-上手に死ねる社会にする」という表題で、国会で審議がはじまる社会保障改革関連法案に関して論じていました。
社説によると、09年に亡くなった人数は114万人。2030年には161万人になる。75歳以上では一人暮らしが4割をしめ、認知症の高齢者は今の1.7倍の350万人になる。病院で死ぬ人は89万人、介護保険施設でみとられる人は9万人、自宅で亡くなる人が20万人。では、残りの40万人はいったいどこで最後を迎えればよいのか。現在の高齢化社会は近々「多死社会」になる。
「多死社会」とはきつい言葉だと感じましたが、将来にそなえて表題のとおり「上手に死ねる社会」をつくることが政治の責任である、というのが社説の主張でした。また、「上手に死ねる社会」とは、公共の福祉という観点から見て、人間らしく生き、死ぬことのできる社会のことだと考えれば、もっともなことだといえます。
何が人間らしい生と死であるかは見方によって違います。キリスト教信仰の観点から考えるなら、神に創造され、神の似姿を与えられた人としての生であり死です。それは、神を知り、神を得て生き、世を去っていくというありかたです。
人は、神から命の息を吹き入れられて生きる者となったと聖書が教えるとおり(創世記2:7)、霊的存在です。霊的存在であるとは、食べて満腹するだけでは満足できない、自分らしいと感じることができないということです。よく「太ったブタより痩せたソクラテス」といわれますが、生きる意味を問い続けるというような、ある種の精神的探究による自分自身の意味づけなしに、人は満足できません。その理由は、人が霊的存在であるからです。
霊的な達成感あるいは平安は、神によって与えられるものです。神を知り、祈り、あがめることにより、人は霊的存在として完成します。人の生涯は、ただ生きるためというより、神を見いだすためにあるともいえます。人間らしい生と死は、神の内にあります。



なお、来週は、ペンテコステ記念の礼拝です。
「自分で判断しなさい」をテーマに、
コリントの信徒への第1の手紙第11章2節から16節を学びます。
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2012年05月13日

スタートラインに立つ

本日は、春の伝道集会の第1回です。
「スタートラインに立つ」のテーマで
ヨハネによる福音書第3章1節から15節までを学びました。

はじめに、今井牧師のメッセージをご覧ください。

「生き方は違っても」

新聞には、少し関心を持つとおもしろい話しがたくさんあります。
だいぶ前のことですが、熊本県にある川辺ダムは、ダムを建設すべきか建設を中止すべきかについて、新聞やテレビで度々報じられていました。建設中止となったことをニュースで知ったときには、そういうこともあるのかと驚きました。
5月6日の朝日新聞朝刊に、建設中止を決定した蒲島郁夫(かばしまいくお) 熊本県知事の特集がありました。熊本県北部の貧しい農家の8番目の子として1947年に生まれ、小学校2年から高校卒業まで新聞配達をして家計を支えるが、ほとんど勉強せず、高校の成績は220人中200番台。農協に就職し、21歳の時に農業研修のために渡米。勉学のおもしろさに目覚めて大学に進学しハーバード大学大学院博士課程に28歳で合格。修了して、東京大学法学部教授などをへて2008年3月に熊本県知事。同年9月にダム建設の白紙撤回の宣言をおこなった。
5月8日の朝日新聞朝刊には、正社員として働いていたが、30歳を前に一生同じ生活を続けることに迷いが出て、先の計画のないまま仕事を辞めた男性のことが載っていました。房総半島に行き、漁師の話を聞いているうちに興味が湧き、インターネットで調べているうちに南房総市の漁協に雇われて定置網漁の漁師になった。生涯漁師として生きていきたいのだそうです。
人にはいろいろな生き方があることは誰もが認めることですが、いざ自分のこととなると、これまでのこと、これからのことに悩む、迷う、肯定しえないということがあります。病気になったり不慮の事故にあうこともあるかもしれません。
しかし、ひとり自分の力だけに頼るのと、神と共に生きているという確信を持って生きていくのとでは、姿勢に大きな違いがあります。希望の持ち方、忍耐の仕方が違い、責任ある生き方に通じます。神の前で生きるとは、責任を問われることであるからです。




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2012年05月06日

私の羊を飼いなさい

本日は、「私の羊を飼いなさい」をテーマに
ヨハネによる福音書第21章15節から25節までを学びました。



当教会では、5月13日より(それぞれ10時30分より)
春の伝道集会を開催します。
是非教会においでください。
5月13日(日) 「スタートラインにたつ」
5月17日(木) 「元気のヒケツ」(婦人会主催)
5月20日(日) 「みんな年を取る」

今井献牧師による「主の祈り」解説は、第2回、第3回を掲載します。

主の祈りA 「天にましますわれらの父よ」 主の祈りは、少しことばや状況が違っていますがマタイ6:9以下とルカ11:2以下で、主イエスが直接教えた祈りとして記されています。主が与えた祈りという意味で「主の祈り」と呼ばれます。また、ルカ福音書によるなら、ヨハネがその弟子に与えたようにわたしたちにも祈りを教えてください、との弟子の願いに応えて与えられています。それゆえ、この祈りはイエスの弟子のしるしです。
われらの父よ クリスチャンは神を父と呼ぶのですが、このことはキリスト教信仰の本質に関わっています。本来神を父と呼べるのは、神の子であるイエス・キリストだけです(ルカ22:42)。しかし、イエスを神の子であり、まことの救い主と信じる信仰により、罪から救われてキリストのものとされています。それゆえ、信者も神を父と呼ぶことができます。わたしたちには、キリストにあって神の子です。キリストがわたしたちに神を父と呼んで祈るように教えたことには、この特別な意味があるのです。
父と呼ぶことには、神とわたしたちの特別な関係があらわれています。人間の父がその子を守り、養い育てるように、神は父としてわたしたちに必要なものを備え、養い、ときとして叱責し、試練によって鍛えることがあるという関係です。
また、神は、わたしの父ではなく、われらの父です。すべてのキリスト者にとっての父です。それゆえ、すべてのキリスト者は神を父とする神の家族です。この父との関係において互いに助け合うことが求められています。大震災において、世界のキリスト者と教会とが東北の教会への祈りと支援を惜しまないことは、父を神とする聖徒のまじわりがあるからです。
天にまします 神が天におられるとは、すべての人にとっての神、天地に満つるすべてを支配する神であるということです。大震災のゆえに今も悲しみと困難の中にいる方のために、神を父と呼んで祈ること(とりなしの祈り)は、わたしたちのなすべき務めです。ただわたしたちのためだけでなく、すべての人のためにも祈りましょう。

主の祈りB 「願わくは御名をあがめさせたまえ」
「御名をあがめる」とは、神を礼拝する、ほめたたえるという意味です。また、御名とは、「われらの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ」という祈りなのですから、イエス・キリストの父である神の「御名」です。一般的な神の御名ではありません。それゆえ、他の神ではなく、キリストの父である神を礼拝させてくださいという意味です。
上に書いたとおり、御名とはキリストの父である神のことです。どんな神でもいいということではありません。もしどんな神でもいいのであれば、日本人は神を礼拝する、参拝することに抵抗はないので誰にも抵抗のない祈りかもしれません。しかし、キリストの父である神なのですから、キリストを理解し、受入れてこそ成り立つ祈りです。それゆえ、キリスト教固有の祈りのことばです。
また、キリストとその救いをなお深く理解させてください。今まで以上に愛と感謝を持って神を礼拝させてください、という意味も込められています。信仰の成長を願うものです。
神が人に求める第一のことは、神を神としてあがめること、讃えること、礼拝することです。とても単純なことのように思えますが、神を礼拝することほど人にとって大切なこと、神聖なことはありません。救い主キリストをとおして神を礼拝することに、本来の人間の姿があります。しかし、これが難しいことでもあるのです。
そう考えると、わたしひとりが御名をあがめるだけでなく、わたしの家族が、わたしの親が、知人が御名をあがめることができるようにしてください、という切実な祈りにもなります。
わたしの家族にも、わたしと同じくまことの神を礼拝させてくださいとは、より具体的にいえば、わたしをとおして家族がキリスト知り、信じる者にならせてください、ということです。この意味では、ただわたしのことを祈るのではなく、家族や隣人の救いのための執り成しの祈りでもあります。


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2012年04月22日

主イエスの約束

本日は、「主イエスの約束」をテーマに、
ヨハネによる福音書第21章1節から14節を学びました。



なお、今井牧師による「主の祈り解説」が週報論壇において始まりました。
ここでも掲載いたします。
また、当教会では、5月13日より(それぞれ10時30分より)
春の伝道集会を開催します。
是非教会においでください。
5月13日(日) 「スタートラインにたつ」
5月17日(木) 「元気のヒケツ」(婦人会主催)
5月20日(日) 「みんな年を取る」



「主の祈り」解説@ 祈りの役割
                    日本キリスト改革派東京教会
                       牧師 今 井  献
主の祈り     
天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせた
まえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者
を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをここ
ろみにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、か
ぎりなく汝のものなればなり。 アーメン。

これから主の祈りを簡潔に解説していきます。祈りはあらゆる宗教にあるとともに、各々の祈りにはその宗教あるいは信仰の本質が最もよくあらわれているということができます。
キリスト教信仰における祈りの役割について、ウェストミンスター小教理問答書は次のように教えています。
問88 キリストがあがないの祝福をわたしたちに伝えるのに用いられる外的な手段とは何ですか。
答 キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な普通の手段とは、キリストの規定、特に御言葉、礼典、祈祷です。このすべてが、選民にとって救いのために有効とされます。
キリストの救いは、聖霊なる神の働きにより、信仰をとおしてわたしたちに与えられます。また、信仰が生涯支えられることも、さまざまな試練や困難の中にあって信仰と生活が守られることも、聖霊の助けと働きによります。ただし、聖霊は風が吹くように自由に働くのであって、わたしたちの努力や熱心で聖霊の働きをコントロールすることはできません。
しかし、聖霊が豊かに働く普通の手段・方法を神は定めておられ、それを正しく用いるなら聖霊の豊かな働きにあずかることができます。この手段が御言葉(聖書と説教)と礼典(洗礼と聖餐式)と祈りです。どうしたら信仰が与えられてキリストの救いにあずかれるのか、どうしたら信仰がより深まるのか、よりきよい生活を行うことができるのか、と悩んでいる方は、何か特別な方策があると思わず、御言葉と礼典と祈りという普通の手段を正しく用いてください。この3つは、誰もが使えるだけでなく、最も大切で効果的な手段・方法です。牧師も長老も、その働きを全うするための秘訣はこれらを正しく用いること以外にありません。キリスト教は、特別な修行や密かな儀式を必要としないという点で、わかりやすいものです。
主の祈りを学ぶことをとおして、キリスト教の祈りについて、また信仰について理解を深めましょう。

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2012年04月17日

神との平和

4月15日の礼拝の説教は、神との平和をテーマに
ヨハネ福音書第20章9節〜31節を学びました。

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2012年04月08日

キリストの復活とわたしたちの救い

本日は、イースター記念礼拝です。
「キリストの復活とわたしたちの救い」のテーマによって
ヨハネによる福音書第20章1節より18節までを学びました。

まず今井牧師のメッセージをご覧ください。


キリストの復活
                         今井 献

本日はイエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝です。世界の教会とキリスト者が特別な思いでこの朝を迎えています。
現代日本の一般的感覚からすると、死からの復活は非常識なことに思われるかもしれません。しかし、キリストが十字架にかけられて死んだというだけでは、教会が誕生することも、キリスト教信仰が世界中に広がることもできませんでした。なぜなら、聖書を読むと、イエスが捕えられ、十字架刑によって殺されたことで、イエスの弟子たちは逃げ去り、ユダヤ人を恐れ(ヨハネ20:19)、キリストへの期待はついえたという絶望状態にありました。弟子のリーダーであったペトロは、イエスが逮捕された直後、ユダヤ人を恐れて三度もイエスなどという男は知らないと言い張って、先生であるイエスを裏切っています。
使徒言行録は、教会の誕生と、教会による福音宣教を記した書ですが、宣教の内容は常にイエス・キリストの復活に結びついています。他の新約聖書も、すべてキリストの復活を前提とした内容です。キリストの復活こそが、ちりぢりになった弟子たちを再び集め、教会を生み、教会に力を与えて、全世界に福音を広めることができた理由です。
キリストの復活は、キリストが復活したという一度限りのできごとではありません。キリストにあって救われ、神と共に生きるように変えられた者は、キリストに続いて復活の恵みにあずかることを保証する出来事でした。キリスト教信仰とその救いは、キリストの復活にすべてがかかっています。
生けるまことの神がいるとは、神にこそ人を生かす方であるということです。この神が死の力、死の悲惨からわたしたちを救います。ただし、この救いは復活までわたしたちに何の変化ももたらさないというものではありません。信仰により、復活のキリストにあずかることで、復活の命、永遠の命に今生きる者に変えられています。救いは、キリストを信じたとき、わたしたちの中ではじまります。


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2012年04月01日

イエス、十字架に

本日から受難週に入りました。
今週は、「イエス、十字架に」をテーマに
ヨハネによる福音書第19節16節から37節までを
学びました。






受難週を迎えて
                                今井  献

今週は受難週であり、次主日がイースター記念礼拝、すなわちキリストの復活を記念する礼拝です。
キリスト教の記念日には、クリスマスのように固定した記念日と、復活日(イースター)のように移動する記念日とがあります。
イースターは、3月21日以降の満月の後の最初の主日(もし満月が主日に当るときはその次の主日)となっています。それで3月22日から4月25日までの間を毎年移動します。そしてイースターから7週間後の主日が聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。
キリスト教の救いを福音といいます。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音をここでもう一度知らせます。・・・すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(Tコリント15:1〜4)と聖書が記しているように、福音はキリストの死と復活にあります。もちろん、死と復活の事実だけでなく、その意味も大切です。
キリストの十字架における死は罪と死の力との戦いであり、復活は罪と死の力に勝利し、わたしたちのためにキリストが永遠の命を勝ち取ったことを意味します。人の常識に合わせて、キリストの復活は、弟子たちがまぼろしを見ただけ、弟子たちが死体を墓から盗み出して復活したと宣伝したなどと合理的に説明する者もいますが、もし復活が事実でないならキリスト教は成り立ちません。Tコリント15章は、もしキリストの復活がなければキリスト教信仰はむなしいものであり、キリスト者はすべての人の中でもっとも惨めな者であると書いて、キリストの復活こそがわたしたちの救いと復活の根拠であることをいろいろな事実と議論をつくして説明しています。
神とその救いがキリストの死と復活において世に現れたことを、感謝をもって受入れましょう。
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2012年03月25日

見よ、この男だ

本日は、「見よ、この男だ」をテーマに
ヨハネ福音書第18章38節〜第19章16節までを学びました。



来週は、「イエス、十字架に」をテーマに
ヨハネ福音書第19章16節〜37節までです。
教会にお出かけください。

posted by 今井牧師説教集 at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教集

2012年03月18日

本日(2012.03.18)の礼拝

本日、今井牧師は、高島平教会での説教のため
出張です。このため、東京教会では、
「新しい人を身に着けて」をテーマに、
エフィソの信徒への手紙第4章17節から、第5章5節までを
稲田長老の奨励で学びました。

本日の今井牧師の説教の掲載はありません。
来週は、ヨハネによる福音書第18章38節から19章16節までを
「見よ、この男だ」をテーマに学びます。
教会にお出かけください。
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2012年03月11日

真理を語るイエス

本日は、「真理を語るイエス」をテーマに、
ヨハネによる福音書第18章28節から38節を
学びました。





本日は、東日本大震災から1年です。礼拝後に全員で祈祷会を持ち、
ともに祈りを捧げました。今井牧師のメッセージを掲載します。


わからないこともある
                     日本キリスト改革派東京教会牧師 今井 献

大震災から1年が経ちました。なぜあのようなことが起ったのかと誰もが問いかけています。神は唯一であると信じている者にとっては、なぜ神はあのようなことをゆるしたのか、という問い方になるかもしれません。
しかし、答がない、ということも受入れる必要があります。それでも、被災した方々のために、復興に力を尽くしている方々のために、復興のために、神に祈ることは最も必要であり大切なことです。信仰者にとって、ボランティアに行くことも、震災募金に応じることもとても大切です。特にボランティアは緊急に求められることです。それでも、長い復興を考えると、神に祈ることが最も大切です
なぜ神がいるのに、自然災害という悪と人による倫理的な悪があるのかという問は、ヨブ記のテーマであり、昔からの問いでした。神が悪の存在をゆるす理由を考える論は、神議論、あるいは弁神論とよばれています。
@犯した罪にふさわしい神からの報いであり、その罪を悔い改めるなら人を正す善なる手段にかわる。A今は意味・理由がわからなくても時間がたてばわかってくる。B人にはわからなくても計り知れない神の知恵の中では意味・理由のあることであり、決して無意味なことではない。C神はこのことをとおして何かを教えようとしておられる。Dこの困難を乗り越えて信仰が一段と成長するために神から与えられた試練である。Eよりより神の救いへと解放される道である。以上のようなことが神議論から出る答です。
しかし、悪の存在することについての以上のような理由を聞いても、わかりました、納得しましたという訳にはいかないと思います。理由はわからないということがあってもよく、わからなくても、いやわからないからこそ神に祈るのです。『なぜ私だけが苦しむのか』(H・Sクシュナー、岩波現代文庫)はこの問題を取り上げています。
posted by 今井牧師説教集 at 13:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 説教集